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かず

Author:かず
某総合病院で日々、臨床で忙しい医師カズです。
各種医療職の資格試験問題に挑戦しつつ、資格を目指す方々を励ますブログです。
内容は、国内の医師、歯科、薬剤師、看護師国試など、さらには米国医師資格試験(USMLE)、米国歯科医師資格試験(NBDE)あたりの問題にも挑戦する予定です。
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m3com クイズから、日本史上で著名人の病気に関する問題。
まずは、国家試験とはあまり関係ないでしょう。
正月なので、遊び感覚での出題ですが、あまり縁起がいいとはいえませんね。

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問題1
戦国武将武田信玄は、歴史書『甲陽軍艦』によれば、晩年「隔の病」にかかっていたと伝えられます。
元亀3年(1572)、天下統一のため京都を目指して西へ軍勢を進めた信玄は、徳川軍を次々と撃破し、
織田信長・徳川家康の連合軍を同年12月、三方原で打ち破りました。
しかし、破竹の勢いの武田軍は、そのまま京都に向かわずに三河各地を攻め落とした後、
元亀4年(1573)4月初めに、突如甲州へ戻り始めます。
信玄の病状が急速に悪化したからでしょう。
帰路、信玄は腹の激痛に苦しみ、とうとう同年4月12日に、信州駒場で53歳の生涯を終えます。
さて、信玄を死にいたらしめた「隔の病」の可能性の最も高いのは次のうちどれでしょう。

A 心房中隔欠損症
B 肺炎
C 胃がん
D 赤痢
E 慢性腸炎


問題2
平安時代の権力者藤原道長は、寛仁2年(1018)に、後一条天皇が11歳になったとき、
三女の威子を入内させ、中宮(皇后)としました。道長は威子立后の日、祝宴を開き、
宴に招かれた藤原実資に「この世をばわが世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば」(『小右記』)という
即興の歌を詠んだと伝えられます。しかし、栄華をきわめた道長の体は、それゆえに、持病にむしばまれつつあり、
翌寛仁3年(1019)には、持病が悪化し、視力が低下し、出家しました。
以後、法成寺建設に力を尽くしましたが、万寿4年(1027)、死の数日前から背中に腫れ物ができ、
苦しみつつ病没しました。62歳でした。
さて、道長の持病は、次のうちどのようなものであったと推測されるでしょうか。

A 網膜動脈閉塞症
B 肺結核
C 睡眠時無呼吸症候群(SAS)
D 腎臓疾患
E 糖尿病


問題3
明治維新の立役者の一人である西郷隆盛は、若い時薩摩藩の権力者島津久光ににらまれて、
喜界島や沖永良部島に流されました。そのときに寄生虫に感染して、ある病気の症状を示すようになり、
その影響で陰嚢が肥大化したといわれています。
さて、それはどのような病気でしょうか。

A トリパノソーマによる睡眠病
B 日本住血吸虫症
C 象皮症
D マラリア
E アニサキス症


問題4
夏目漱石は、自分の病気や手術を小説の題材に取り入れています。
彼の最後の小説となった『明暗』は、「医者は探りを入れた後で、
手術台の上から津田をおろした」という診察の描写から始まりますが、
この診察描写は、漱石が実際に体験したどんな病気に基づくものだったのでしょう。

A 天然痘
B 大腸がん
C 肺結核
D 痔
E 胃潰瘍


問題5
戦国武将伊達政宗は独眼竜として名高いのですが、なぜ隻眼になったのでしょうか。
最も有力な説をお答えください。

A 生まれつき片目が見えなかったから
B 子どものころ刀で目を突いたから
C 子どものときに疱瘡にかかったから
D 子どものときに父に切られたから
E 若いときの戦闘で傷ついたから


問題6
唐からやってきた名僧鑑真和上の両眼が見えなくなった理由として最も有力な説は何でしょうか。

A 若いときから両眼がみえなかった
B トラコーマが悪化した
C 嵐で揺れる船のなかで両眼を強く打撃した
D 糖尿病網膜症が悪化した
E 老人性白内障が悪化した


問題7
高杉晋作は、長州藩を尊王攘夷から倒幕へと向かわせた有名な幕末の志士ですが、
幕府の倒壊をみることなく、直前に亡くなります。その死因として最も有力な説は何でしょうか。

A 戦死
B 暗殺
C 脚気
D 結核
E 麻疹


問題8
徳川家康の死因として最も有力な説は何でしょうか。

A 天ぷらの食中毒
B 胃がん
C 回虫感染による死
D 流行性感冒の悪化
E 暗殺


解答:MOREへ




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解答


問題1
戦国武将武田信玄は、歴史書『甲陽軍艦』によれば、晩年「隔の病」にかかっていたと伝えられます。
元亀3年(1572)、天下統一のため京都を目指して西へ軍勢を進めた信玄は、徳川軍を次々と撃破し、
織田信長・徳川家康の連合軍を同年12月、三方原で打ち破りました。
しかし、破竹の勢いの武田軍は、そのまま京都に向かわずに三河各地を攻め落とした後、
元亀4年(1573)4月初めに、突如甲州へ戻り始めます。
信玄の病状が急速に悪化したからでしょう。
帰路、信玄は腹の激痛に苦しみ、とうとう同年4月12日に、信州駒場で53歳の生涯を終えます。
さて、信玄を死にいたらしめた「隔の病」の可能性の最も高いのは次のうちどれでしょう。

A 心房中隔欠損症
B 肺炎
C 胃がん
D 赤痢
E 慢性腸炎


正解 C「胃がん」。

信玄の死因は、戦闘による傷の悪化や、暗殺説、結核説もありまずが、 やはり胃がん(もしくは食道がん)説が最も有力と考えられています。というのは、「信玄の葬儀直後に侍医である御宿監物友綱が、 信玄の重臣小山田信茂に送った天正4年(1567)4月16日の書状に、信玄の病状は、「若しくは肺肝により、病患忽ち腹心に萌し安んぜざること切なり。 これにより、倉公花佗の術を尽し、君臣佐使の薬を用ふると雖も、業病更に癒えず。 
追日病枕に沈む」(『甲府市史』所収)とあります。 大意は、肺肝とは肺臓と肝臓のことですが、
この場合、胸と腹に痛みがありそれが痛くて容態は悪化し、良薬を使ったけれども病が重くなり、
ついにお亡くなりになったというものです。

倉公と花陀は、漢の時代の伝説上の名医です。
とくに花陀(華陀とも)は、麻沸散という麻酔薬を使って外科手術を行った名医で、
華岡青洲も華陀の麻酔薬をヒントに麻沸湯を発明しました。
この記録を見れば、具体的には分かりませんが、信玄の病状を抑えるために麻酔を使っていたことが窺えます。
君臣佐使の薬とは、漢方薬を君(くん)薬(やく)(作用の中心的役割を果たす)、
臣(しん)薬(やく)(君薬に次いで重要な作用を果たす)、佐(さ)薬(やく)(君薬を助ける役割を果たす)、
使(し)薬(やく)(君臣と佐薬の補助的役割を果たす)の4つに分類した良薬の意味で、
こうした良薬を使っても信玄は助からなかったのでした。


問題2
平安時代の権力者藤原道長は、寛仁2年(1018)に、後一条天皇が11歳になったとき、
三女の威子を入内させ、中宮(皇后)としました。道長は威子立后の日、祝宴を開き、
宴に招かれた藤原実資に「この世をばわが世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば」(『小右記』)という
即興の歌を詠んだと伝えられます。しかし、栄華をきわめた道長の体は、それゆえに、持病にむしばまれつつあり、
翌寛仁3年(1019)には、持病が悪化し、視力が低下し、出家しました。
以後、法成寺建設に力を尽くしましたが、万寿4年(1027)、死の数日前から背中に腫れ物ができ、
苦しみつつ病没しました。62歳でした。
さて、道長の持病は、次のうちどのようなものであったと推測されるでしょうか。

A 網膜動脈閉塞症
B 肺結核
C 睡眠時無呼吸症候群(SAS)
D 腎臓疾患
E 糖尿病


正解 E「糖尿病」。

道長が51歳の寛仁2年(1018)のとき、側にいた藤原実資の日記『小右記』には、
「(道長は)3月の頃からしきりに水を飲むようになった、近頃は昼夜の別なく水を飲みたくなる。
口が渇いて脱力感がある」と述べたと記録されています。明らかに道長には糖尿病の症状が現れてきました。
『小右記』とは、道長の一族の藤原実資が書き留めた日記のことです。
望月の歌を詠んだ翌日の『小右記』には、道長の視力が低下したことを記してあり、
糖尿病性の白内障が進行していたことがわかります。

翌寛仁3年(1019)2月6日の『御堂関白記』には、
「心神常の如し、しかし、目尚見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物のみ之を見る」と、
ほとんど目が見えなくなっていることが記され、万寿4年(1027)6月4日の『小右記』には、
「飲食受け付けず、無力殊に甚だしき由」と記録されています。

この年の11月21日には、下痢が激しくなり、背中に腫れ物ができ、それが化膿しました。
医師が招かれ、背中の腫物の毒が腹中に入り、救いがたいとの診断があり、
12月1日夜半に、背中の腫れ物に針を刺して、膿汁を出す治療をしたのですが、
あまり効果は無く、道長の叫ぶ声は極めて苦しげであった(『小右記』)といいます。
その後、昏睡状態に陥り、12月4日の早朝に、生涯をとじました。

栄華を極めた道長には、糖尿病の遺伝的素因、過飲過食、運動不足、ストレス、
肥満と、発症因子のすべてがそろっていたのでした。


問題3
明治維新の立役者の一人である西郷隆盛は、若い時薩摩藩の権力者島津久光ににらまれて、
喜界島や沖永良部島に流されました。そのときに寄生虫に感染して、ある病気の症状を示すようになり、
その影響で陰嚢が肥大化したといわれています。
さて、それはどのような病気でしょうか。

A トリパノソーマによる睡眠病
B 日本住血吸虫症
C 象皮症
D マラリア
E アニサキス症


正解 C「象皮症」。

象皮症は人間にしか寄生しないバンクロフト糸条虫によるフィラリア症で、感染してしばらくは何もないのですが、
虫が3カ月から1年で成熟し、リンパ節やリンパ管に寄生すると突然発熱し、リンパ節が腫れて痛みを伴います。
年に数回の発作を繰り返すうちに、リンパ管が破壊され、タンパク質がリンパ管から漏れて組織内に蓄積され、
組織液の滞留によって細胞の変性と硬化が進み病変部が象の皮膚のような感じになるので、
象皮病や象皮症などと呼ばれました。

この寄生虫は蚊によって媒介され、成熟したオスは約4㎝、メスは約9㎝にもなり、リンパ管やリンパ節に寄生し、
寿命は4-5年と言われています。
象皮病の症状は、下腿や鼠径部、陰嚢、上腕、乳房などの末梢部分に多く現れます。

西郷隆盛は、この感染により陰嚢が大きく腫れてしまい、馬に乗ることが困難となって多く駕籠で移動しました。
また、西南戦争で敗れて官軍により右股と脇腹の二箇所に銃弾を受け、自害することを決めました。
自決後、首も死体も埋められましたが、首のない死体を検分した官軍の記録には、
名前、西郷隆盛とあって、「頭頸体離断、右大腿より左骨盤部貫通銃創、右尺骨部旧刀創、陰嚢水腫」と記されており、
その膨れあがった陰嚢によって、西郷本人と確認されたのでした。

象皮症は、日本では、九州から沖縄にかけて発生がみられましたが、現在は根絶しています。
しかし、現在でもアフリカや東南アジアなどでは根絶しておらず、藤田紘一郎氏によれば、
世界の熱帯、亜熱帯に患者数約1億5000万人、世界総人口の実に3%を占める重要な病気であるといわれます。

現在の日本で発症がほとんどないのは、この病気は、バンクロフト糸状虫の感染幼虫をもった蚊に
何度も繰り返し刺されないと臨床症状がでてこないからだそうです。


問題4
夏目漱石は、自分の病気や手術を小説の題材に取り入れています。
彼の最後の小説となった『明暗』は、「医者は探りを入れた後で、
手術台の上から津田をおろした」という診察の描写から始まりますが、
この診察描写は、漱石が実際に体験したどんな病気に基づくものだったのでしょう。

A 天然痘
B 大腸がん
C 肺結核
D 痔
E 胃潰瘍

正解 D「痔」。

『明暗』は、「朝日新聞」に大正5年(1916)5月26日から同年12月14日まで連載され、
漱石が病没したため未完のまま終了しました。
主人公津田は痔の手術費用を工面するために奔走するのですが、人間のさまざまなエゴイズムに出会うことになります。
『明暗』は、冒頭から痔の手術のため探りをいれていること、レチネという下剤用のヒマシ油を飲んだこと、
結核性の痔ではないことなどの記述から始まります。
漱石は、明治44年(1911)に神田区内の佐藤病院で痔の手術を受けており、
漱石の明治44年11月から大正元年10月までの日記には、この手術の様子や通院、
再手術の様子などの詳しいメモがあり、これが『明暗』の題材となりました。

1000円札の肖像にもなった夏目漱石ですが、彼の肖像画はどれも左を向いています。
なぜかというと、右顔には幼児のときに患った天然痘の痕が残っているからと言われ、
容姿にかなりのコンプレックスをもっていました。

東京帝国大学を卒業した漱石は、高等師範学校の英語教師になりますが、失恋を経験し、
肺結核にもなり、神経衰弱に襲われるようになります。
この症状は、英国に留学した時に日本人への偏見と英文学研究への疑問からさらに悪化し、
強度の神経衰弱に陥ります。
強制的に帰国させられた漱石は東京帝国大学で教鞭をとりますが、癇癪持ちの彼は、
ある時やる気のない学生、藤村操を厳しく叱責しました。
ところが、藤村は叱責された数日後に華厳の滝へ投身自殺してしまい、漱石はさらにノイローゼを募らせます。
そこで、高浜虚子が気分転換に小説を書くことを勧め、できたのが処女作『我が輩は猫である』でした。
これが好評で、漱石は作家としての道を歩むことになります。

その後、『倫敦塔』、『坊ちゃん』などで人気作家の地位を固めていき、やがて専業の作家となるのですが、
コンプレックスと癇癪持ちは常に付きまとっていて、その結果彼は胃潰瘍を患い、
何度も発症を繰り返し、1916年(大正5)の12月9日、大内出血を起こして『明暗』の執筆途中で死亡したのでした。


問題5
戦国武将伊達政宗は独眼竜として名高いのですが、なぜ隻眼になったのでしょうか。
最も有力な説をお答えください。

A 生まれつき片目が見えなかったから
B 子どものころ刀で目を突いたから
C 子どものときに疱瘡にかかったから
D 子どものときに父に切られたから
E 若いときの戦闘で傷ついたから


正解 C「子どものときに疱瘡にかかったから」。

伊達政宗は、永禄10年(1567)に出羽国米沢城に伊達家第16代伊達輝宗の嫡男として生まれ、
幼名を梵天丸と言います。元亀2年(1571)に疱瘡(天然痘)を患い、高熱を出して苦しむも生き返りました。
しかし、高熱と膿により右目を失明し、眼球が飛び出た状態になったのです。
それ以降、母親にその容姿が醜いと疎まれ、政宗は鬱々とした日々を過ごしました。

守り役の片倉小十郎らが、輝宗に眼球剔出を直訴し、輝宗もこのままだと武将としての将来も危ういと許可しました。
片倉小十郎らは梵天丸をきつく縛り、舌を噛まないように猿ぐつわをして、眼球をえぐり出したといいます。

のちに、徳川家康に「右目をどうしたか」と聞かれたとき、
「木から落ちたとき目が飛び出てしまったが、美味しそうだったので食べてしまった」
と答えたというエピソードがあります。

天正12年(1584年)に父の隠居に伴い、家督を相続し、伊達家第17代当主となりました。
その後、東北を平定し、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めに際して秀吉に臣従し、
関ヶ原合戦においては、上杉勢への攻撃を行った功績により徳川家康から仙台領62万石の安堵を得ました。
寛永13年(1636)に、ガン性腹膜炎あるいは食道癌で亡くなりました。数えで69歳の波乱に満ちた生涯でした。

なお、右目に眼帯をつけるようになったのは、1942年の映画「獨眼龍政宗」あたりの演出からで、
本来は眼帯のない白目の状態だったと考えられています。


問題6
唐からやってきた名僧鑑真和上の両眼が見えなくなった理由として最も有力な説は何でしょうか。

A 若いときから両眼がみえなかった
B トラコーマが悪化した
C 嵐で揺れる船のなかで両眼を強く打撃した
D 糖尿病網膜症が悪化した
E 老人性白内障が悪化した

正解 E「老人性白内障が悪化した」。

鑑真和上(688-763)は、揚州の大明寺住職であった天平宝字14年(742)に、
日本から唐に渡った栄叡、普照らから日本への渡来を懇願されました。
奈良時代には、まだ日本で戒律を僧侶に与える資格のある高僧がいなかったからです。

二人の若い僧の熱意を受けて、日本に渡ることを決意した鑑真和上でしたが、
彼の渡海に反対する者に阻止されたり、嵐による難破などで5度の渡海に失敗しました。
6度目に我が国に渡ることが出来た時、既に彼の両眼は見えなくなっていました。

彼の正伝である『唐大和上東征伝』によれば、鑑真和上がひどい炎暑の中で視力が次第に衰えていき、
眼の治療にすぐれた胡人(西方人) に出会い、治療をうけたが最後に失明してしまったとされています。
またそれは、鑑真63歳の頃だったと言われ、この年齢と特別の眼痛の自覚症状の記録がないこと、
両眼の視力が次第に落ちていったことなどから、老人性白内障であったと考えられています。
難破船の中で塩水を浴びたことはあっても、両眼を打撲したという記録はありません。

白内障は、高齢になればなるほど発症して、現代日本でも年間120万人以上が発症しています。
糖尿病網膜症は、糖尿病の合併症の1つで、 時には失明に至ります。
今唐招提寺に秘蔵されている鑑真和上像は晩年の生き写しとも言われていますが、
贅肉のない姿であり、伝記にも糖尿病らしい記事は見られません。

トラコーマが日本で話題になったのは明治時代に学校教育が始まってからです。
明治24年(1891)に愛媛県の小学校で眼科検診が行われ、初めてトラコーマの統計がとられ、
男子生徒の約10%、女子生徒の14% がトラコーマに感染していたという記録があります。


問題7
高杉晋作は、長州藩を尊王攘夷から倒幕へと向かわせた有名な幕末の志士ですが、
幕府の倒壊をみることなく、直前に亡くなります。その死因として最も有力な説は何でしょうか。

A 戦死
B 暗殺
C 脚気
D 結核
E 麻疹


正解 D「結核」。

高杉晋作(1839-1867)は、長州藩士の家に生まれました。
幼少期から身体が弱い少年でしたが、胆力を鍛えるために処刑場で処刑された生首と
じっとにらめっこをしていた逸話があります。

10歳の頃、疱瘡にかかりますが無事治りました。
嘉永5年(1852)に藩校の明倫館に入学し、剣術では、のちに柳生新陰流の免許皆伝となりました。
安政4年(1857)に、松下村塾に入り、久坂玄瑞らとともに学び、翌年江戸に出て昌平坂学問所で学びます。

文久2年(1862)に、幕府の上海貿易使節団に加わり、上海で清国が欧米の植民地化していく姿や太平天国の乱を見聞して、
強い攘夷論者になりました。

藩論を攘夷に変えた晋作は、文久3年(1863)に外国船を攘夷の名のもとに砲撃しましたが、
翌年、イギリスなどの4国連合艦隊の砲撃を受け、さらに幕府の第一次長州征討軍にも敗北し、
攘夷派が長州藩から追いだされます。

晋作は、農民を交えた奇兵隊とともに挙兵して長州藩を掌握し、藩論を攘夷倒幕に向かわせたため、
慶応2年(1866)の幕府による第二次長州征討を受けることになります。
しかし、晋作らの活躍により各地で幕府軍に勝利し、幕府の将軍家茂の死もあって幕府軍が敗退しました。
徳川幕府の権威が失墜したため、翌年の大政奉還という幕府崩壊につながりました。

この戦闘の最中にも、晋作の体は労咳(肺結核)に蝕まれており、血を吐きながらの闘いでした。
当時の結核は、特効薬がない不治の病でしたから、戦後は、下関桜山で静養することになりました。
しかし、静養半年後の慶応3年(1867)4月14日に、29歳の若さでなくなりました。

幼い頃から体が弱く抵抗力が弱かったことで結核に感染し、発症させたものと考えられています。

そういえば、ドラマではいつも咳をしていましたね。


問題8
徳川家康の死因として最も有力な説は何でしょうか。

A 天ぷらの食中毒
B 胃がん
C 回虫感染による死
D 流行性感冒の悪化
E 暗殺


正解 B「胃がん」。

豊臣家を滅ぼした徳川家康は、元和2年(1616)1月に鷹狩りに出かけました。
彼にとって鷹狩りはスポーツであり、健康の秘訣でもありました。
しかし、今回の鷹狩りでは寒さにあたり、寝込んでしまいます。京都の豪商茶屋四郎次郎が、
見舞いに鯛の天ぷら(一説には南蛮漬け)を持って来ましたが、それを食べた家康は腹痛と嘔吐などで体調を崩し、
3カ月後に亡くなりました。しかしながら、3カ月前に食べた天ぷらが直接の死因とは言えないでしょう。

家康は、自分には腹に塊があり、これは寸白(すばく)があると考えて自ら万病円という薬を調合しています。
寸白とは、サナダムシなどの寄生虫のことです。
しかし、これは素人の家康の判断であり、侍医の片山宗哲は、万病円は劇薬で、
これを飲んでも腹の塊は取り除かれない、むしろ副作用で体が衰弱するから飲むのをやめるように進言したのですが、
家康の勘気に触れ、信濃国の高島藩に流されてしまいました。

家康の病状は、日増しに悪くなっていきます。3月の下旬になると、食事は湯漬け、粥、すいとんを少量食べるだけになり、
お付きの僧侶の金地院崇伝が重臣の板倉伊賀守に宛てた手紙には、
毎日診察している侍医の半井盧庵らに家康自ら処方した寛中散を調剤させ、それだけを飲んでいるとあります。

4月に入り、死期を察した家康は側近を集めて、遺骨は久能山に収め、
一周忌が過ぎたら日光山に小祠堂を建てて勧請せよと命じています。
病状は悪化の一途を辿り、高熱を発し、しゃっくりが止まらず、大量の痰を喀出して苦しみました。
諸大名も見舞いに駿府城に駆けつける中、元和2年4月17日に息を引き取りました。
75歳の生涯でした。

さて、家康の死因ですが、服部敏良氏が、家康は前から食欲がなかったこと、侍医の触診で腹中のしこりに触れたこと、
天ぷらの食中毒による死であれば数週間で決着がつくはずであること、
天ぷらは症状を顕在化する役割であったろうと推測しています。
酒井シヅ氏も同様の見解を述べています。確かにしこりが触れる段階は、末期がんだったと考えられます。
篠田達明氏も胃がん説ですが、当時、腹中のしこりといえば回虫によるものがほとんどでしたから、
家康が診断を誤ったのも無理からぬこととしています。


解説:m3comから一部改編転用


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2018/01/01 12:28 医学史・一般教養 TB(-) CM(0)
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